【学習会報告】明治時代の水路跡の見学会

本日、「野尻湖から水を引こうとした”幻の水路”明治時代の水路跡見学会」という学習会をおこない、雨が降る悪天候の中でしたが、22名の方にご参加いただきました。
野尻湖は長野県北部にある湖ですが、この水を使う優先権は新潟県の高田平野の用水組合がもっています。江戸時代の17世紀後半に高田藩が開削した用水の使用から続いているのですが、一時、長野県側へ水を引くために、野尻湖に穴を開けて通水したことがありました。明治時代の出来事です。
野尻湖に穴を開ける工事は明治11年(1878) 2月に着工し、その年の8月27日には約180mのトンネル(当時はこれを繰穴(くりあな)と呼んでいました)が貫通しました。そしてそれを水の乏しい村へ通水するために水路が掘られました。

奥に見える穴が野尻湖まで通じているトンネル(繰穴)

中央の奥に見える穴が野尻湖まで通じているトンネル(繰穴)

しかし、この水を計画通り通水するためには鳥居川に大きな筧(かけい)をかけなければならず、結局は筧の設置ができずに、鳥居川の手前までで水路は止まってしまいましたが、鳥居川の手前のところまでは通水されたため、周辺では多くの畑が田んぼになりました。ここで問題になったのが水利権で、当初の約束を守らずに通水を続けたために裁判で敗訴となり、明治24年には完全にふさがれてしまい、以後、水が通ることがなくなったのです。
閉塞後、130年程経過しましたが、町内にはこの水路跡が多く残っていて、今回、ところどころを見て回りました。

通水されずに今も残る素掘りの水路

通水されずに今も残る素掘りの水路

また、太平洋戦争の時、この水路を使って野尻湖の水を鳥居川に入れ、川の水位をあげようとしたことがあったそうですが、通水する前に終戦となったようです。この時に川に注ぐところの底面には石が張られ、両側面も石積みにされて、三面張りの水路にされたということで、今回、その場所も見学しました。

底部の土を取り除いたら、石が張られていました

底部の土を取り除いたら、石が張られていました

結果的にうまくいかずに、忘れ去られてしまった土木遺産ですが、残された水路の見学を通し、当時の人々の考えや、掘削の苦労などを考える良い機会となりました。(渡辺哲也)

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